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南北朝時代、後醍醐天皇らが鎌倉幕府を滅ぼして建武の新政

南北朝時代、後醍醐天皇らが鎌倉幕府を滅ぼして建武の新政を開始し、武家政権は中断する。しかし新政は武家への恩賞施策と武家領地を減らし国衙領の復活を目指す後醍醐天皇の独裁と公家優先の政策で、武家の支持を得られずに混乱した。足利尊氏が反旗を翻すと武家は結集し後醍醐政権を攻め、後醍醐天皇は三種の神器を持って逃げた。しかし尊氏は陸奥の北畠軍に敗北し九州に落ち延びる。しかし勢力を盛り返し翌年に光厳上皇の院宣を掲げて入京。一時後醍醐帝と和解し持明院統の光明天皇を擁立(北朝)して征夷大将軍に任ぜられ、室町幕府を開いた。そのため後醍醐天皇は再び武家権力との対立を深め、吉野に南朝を開き南北朝二つの勢力に分かれて全国的な争乱の時代となる。三代将軍足利義満の頃、南北朝は合一するが、事実上南朝の吸収である。南北朝のせいで混乱はしたが、しかし一説に南朝が一時存在したからその後天皇が継続する力になったという指摘がある。

室町時代、三代将軍である足利義満は、朝廷からの権力簒奪による治天の君を目指し策謀を図り、中国の明から「日本国王」に冊封される。さらに義満は叙任権、祭祀権や元号の改元、治罰の綸旨の封印など権限を奪っていき治天の権限を代行して天皇・朝廷の権威は史上最も低下した[2]。その体制化として三男・義嗣の天皇即位を目指したがその前に義満の死亡で挫折する。

また守護は、当初は国司の業務や地頭の権限への介入を禁じられていたが、応仁の乱以後の地方定住と権力の拡張の結果次第に領主化して室町後期には地方支配も進み、この頃の守護は守護大名と呼ばれる。並行して室町幕府は地方政権化しそれにより15世紀中期からの国内統治は幕府・守護体制とよばれる。

その後60年にわたり封印されていた治罰の綸旨は享徳の乱で復活し乱用されることになり天皇の権威復活の端緒となった。

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2009年01月06日 13:47に投稿されたエントリーのページです。

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