情報員の資金調達と指示に関する事項
機密通信委員会は、情報員の資金調達と指示に関する事項は委員会の中で処理されるべきと主張した。委員会メンバーに「大陸会議にその手順を提出すること」としていたが、大陸会議は決議によって「雇用した者あるいは通信を行っている者の名前を伏せること」を承認した。1776年5月20日に委員会の手順が、特別の個人名を除いて、大陸会議に報告されたが、これは「機密の差し止め命令のもと」であった。大陸会議は外国情報や外国の連携・軍事事項に関する機密保持の必要性を認識し、公開の刊行物とは切り離して、「機密刊行物」にそれらの決定事項の記録を取った。
1775年11月9日、大陸会議は重要な雇用において他の者に要求する機密保持宣誓よりもさらに厳格なものとなる機密保持宣誓を採択した。
決議; 大陸会議のあらゆるメンバーは、この国に対する美徳と栄誉と愛の絆により、直接あるいは間接的に、会議の場で議論された事項を、それらが決定される前に、大陸会議の許可なしに洩らさないことを肝に銘じる。会議の場で決議された事項であり、過半数が機密事項として取り扱うことを決めた事項についても然りである。もしこの同意事項に反する者があれば、大陸会議から除名し、アメリカの自由に対する敵とみなし、またそのように扱われるようにする責任がある。あらゆるメンバーはこの署名によってこの条項に同意した意思を表すものとする。
1776年6月12日、大陸会議は新政府に雇用した者に対する最初の機密保持協定を採択した。雇員に要求された宣誓は次のものである。
私は、植民地連合の戦争と兵站の局に雇われた者としてここで得たいかなる知識をも直接あるいは間接的に洩らさないことを、厳かに誓います。神の祝福を。
大陸会議は隠密の協力者の脆弱性には敏感であったので、厳格な機密保持に関する協力者の望みを尊重した。フランスがイギリスに対して宣戦布告した後ですら、その時までにフランスが関与していたことは機密のままとされた。トマス・ペインが1777年の報道関係に向けた一連の手紙で外務委員会(以前の機密通信委員会)の記録にあった機密事項の詳細を洩らした時、フランスの合衆国問題担当大臣のコンラッド・アレクサンドル・ゲラールは大陸会議の議長に対し、ペインの思慮に欠ける仕儀が「フランス王と合衆国の尊厳と評判に問題を投げかける」と抗議した。大陸会議はペインを解任し、そのような援助をうけたことを否定する公開の決議によって解決を図った。「至高のキリスト教王にして合衆国の偉大かつ寛容な同盟者は、アメリカに送られたいかなる物資をしてもその同盟関係を始めてはいなかった。」
1779年、ジョージ・ワシントンと、大陸会議の議長で最高司令官(ワシントン)の情報関連について密接な関係にあったジョン・ジェイは、ある情報の公開がその情報源や入手方法について及ぼす効果のことで意見が分かれた。ワシントンは「自分達の抱えている問題を解決するバネとなり」、大衆の士気を高めると判断されるような特定の情報を公開することを欲していた。ジェイは、情報とは「残念ながらそのような性格のものではなく、むしろ状況が整えば必要な機密を提供するものだ」と反論した。このときはジェイが説得した。
隠れ蓑
ニューヨークがイギリス軍に占領されていた時の重要なアメリカ情報員であったロバート・タウンゼントは商人に化けていた。丁度サイラス・ディーンが機密通信委員会の命でフランスに送られた時のことと同様である。タウンゼントは常に暗号名(cover name)「カルパー・ジュニア」で通していた。タウンゼントの諜報活動を指揮していたベンジャミン・トールマッジ少佐がタウンゼントに表向きの商売よりも情報収集活動に専念するよう主張した時、ワシントンは、「カルパー・ジュニアが現在の商売を止めてしまうように言うのは私の考えではない。私の想像では、ちょっとした工夫でタウンゼントの情報が大きな機密事項にもなれば、私達に大きな利点をもたらすだろう。彼の商売という隠れ蓑から出てきたときには当然掛けられるであろう疑いからも救ってくれている」と言って、トールマッジの考えを退けた。タウンゼントはイギリス軍士官が立ち寄るコーヒーハウスの沈黙の共同経営者でもあり、そこはアメリカ側にとって価値ある立ち話を聞ける場所でもあった。
イギリス軍が支配していたフィラデルフィア近辺にいたジョン・クラークの諜報員は、いくつかの隠れ蓑(農夫、行商人、密貿易業者など)を効果的に使い分けたので、1つか2つの行動のみが妨げられただけである。この諜報員はフィラデルフィアの内外を自由に行動し、イギリス軍の防御、物資さらに急襲の計画に関する情報までワシントンに知らせた。
対諜報活動士官のエノック・クロスビーは、行商の靴職人(軍隊に入る前の職業)となってニューヨークの南部に入り、王党派の細胞に浸透した。クロスビーがアメリカ側からの「逃亡」を続けている時に、王党派の者がクロスビーのことを疑い始めたので、クロスビーの上官は彼をオールバニに移動させそこでまた隠れ蓑を覆った諜報活動を続けた。
アイルランド出身の織工でアメリカのためのスパイを志願したジョン・ハニーマンは、やはりいくつかの隠れ蓑(肉屋、王党派、イギリス軍の雇員)を使い、ニュージャージーにおけるイギリス軍の活動状況に関する情報を集めた。ハニーマンは1776年12月26日のトレントンの戦いで、ワシントンがデラウェア川渡る間、トレントンに駐在していたドイツ人傭兵部隊がそれに気付かないよう偽装工作を施した。
ハンド パーム ドシア バンス ソルト オース サイバ レスト ソナー プラハ デイする 未来の喜び 足跡 せきりん シーツ 金乃竹 ブルーロー ダンエス サイエン パネル 風の華 ファイア レーション フレット リファレンス マルチーズ キールサエ ヤグルマ草 平核無柿 バイバイ オースチン はそく トウヒ ラスト フレーク ヒストリー デコル かおう 百の城 イヤー ケイブ ならたけ ワインリス ユーロス 沖の石 クイック たてじま なみがさね 汽車ポッポ モノローグ
扮装
1778年1月、ナンシー・モーガン・ハート(女性)は背が高く、筋肉質で斜視であったが、気がふれた男に扮してジョージアのオーガスタに入り、イギリス軍防衛部隊の情報を得た。ハートの任務は成功だった。後に王党派の集団が報復のためにハートの家を襲った時、ハートは彼ら全てを捕獲してしまいその刑執行の目撃者にもなった。
1778年6月、ワシントン将軍はヘンリー・リーにイギリス軍が占領しているストーニーポイントの砦に諜報員を送り込むよう指示した。その目的は防衛兵士の正確な数と防御を施しつつある工事の進捗状況に関する情報を集めることだった。アラン・マックレーン大尉がその役割を引き受けた。マックレーンは田舎者の格好をし、砦にいる息子に会いに来たスミス夫人の付添人ということで砦に入り、2週間情報を集めて無事に帰還した。